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南桂寺

古きを尊び新しきを受け継ぐ、歴史が語る、心の拠り所。

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南桂寺の由緒

南桂寺は真宗大谷派(東本願寺)に属し、海老江惣道場と称していたが『鷺洲山南桂寺』と、山号・寺号が許可せられたのは、明歴三年九月(1657)であった。 時の住職意専は、本堂、庫裡、山門が荒廃していたので、次々と修復し寺域を整備した功績により、当寺中興の祖と伝えられている。 (西成郡史、本山蔵寺院明細帳、南桂寺由来記)


海老江惣道場は、いつ創設されたか明らかでないが、恐らく本願寺の勢力が大阪地方へ延びてきた足利時代であろう。既にそれより以前に中島地区(淀川と神崎川に挟まれた土地をいう。東西南北に分けて名称せられていた)に門徒が次第に増し、南中島の鷺島の荘にも分布されていた。特に本願寺第八代蓮如上人の教化によって、明応五年(1496)に石山御坊(大阪城附近)が建立せられた頃、相前後して創立されたのであろう。

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『石山本願寺日記』によれば、天文五年(1536)に海老江の同行(中島の同行と称す)が活躍しており、元亀元年(1570)織田信長が石山本願寺を攻めた時、海老江周辺に陣地を敷いた織田軍を、海老江の同行が大いに悩ましたといわれている。そして遂には織田軍の武将野村越中守が討死し、一時信長は京都へ撤退している。(真宗史概説)

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当寺の記録によれば、寺地は、東西九間半、南北十三間半あり四畝八歩であって(現在は約480坪) 文禄三年(1594)検地以前に、既に無高御除地(税金のない、住職の権限のある土地)で、延宝五年(1677)の検地帳にその理由が記載してあった。寺の本堂に現在掛けてある『聖徳太子真影』・『三朝高僧真影』は、寛文八年四月(1668)に本願寺第十四代琢如上人より下賜されたもので、裏書きには摂州西成郡南中島惣道場南桂寺常住物也としるされている。意専より現住職まで、意専一道覚一戒静一安翁ー知圓一恵林-勧応一諦実一廣開一秀道-浄恵-慧源-祐益一諦了ー諦玄ー彰誠一圓淳一諦曉(現住職)と次第して、現在十八代目である。現在の建物は前々住彰誠の時、再建整備されたものである。

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当寺の過去帳は元禄十二年(1699)より今日まで現存し、其他往来手形・四国巡拝依頼状(共に旅行の身分証明書で、パスポートのようなもの)宗旨送り状(今で言う転出証明或は移動証明のようなもの)等多数残されている。また觸頭天満別院を通じて通達される本願寺の觸書を記載した帳面が天保年間より五冊残されている。恐らく今言う組長の役務を住職がしていたのであろう。また住職が門徒の葬儀に導師として出る時に乗った大名駕籠や、挟箱(装束入れ)、長柄、朱傘、曲禄等二組が残されている。

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海老江惣道場は、いつ創設されたか明らかでないが、恐らく本願寺の勢力が大阪地方へ延びてきた足利時代であろう。既にそれより以前に中島地区(淀川と神崎川に挟まれた土地をいう。東西南北に分けて名称せられていた)に門徒が次第に増し、南中島の鷺島の荘にも分布されていた。特に本願寺第八代蓮如上人の教化によって、明応五年(1496)に石山御坊(大阪城附近)が建立せられた頃、相前後して創立されたのであろう。

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『石山本願寺日記』によれば、天文五年(1536)に海老江の同行(中島の同行と称す)が活躍しており、元亀元年(1570)織田信長が石山本願寺を攻めた時、海老江周辺に陣地を敷いた織田軍を、海老江の同行が大いに悩ましたといわれている。そして遂には織田軍の武将野村越中守が討死し、一時信長は京都へ撤退している。(真宗史概説)

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当寺の記録によれば、寺地は、東西九間半、南北十三間半あり四畝八歩であって(現在は約480坪) 文禄三年(1594)検地以前に、既に無高御除地(税金のない、住職の権限のある土地)で、延宝五年(1677)の検地帳にその理由が記載してあった。寺の本堂に現在掛けてある『聖徳太子真影』・『三朝高僧真影』は、寛文八年四月(1668)に本願寺第十四代琢如上人より下賜されたもので、裏書きには摂州西成郡南中島惣道場南桂寺常住物也としるされている。意専より現住職まで、意専一道覚一戒静一安翁ー知圓一恵林-勧応一諦実一廣開一秀道-浄恵-慧源-祐益一諦了ー諦玄ー彰誠一圓淳一諦曉(現住職)と次第して、現在十八代目である。現在の建物は前々住彰誠の時、再建整備されたものである。

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当寺の過去帳は元禄十二年(1699)より今日まで現存し、其他往来手形・四国巡拝依頼状(共に旅行の身分証明書で、パスポートのようなもの)宗旨送り状(今で言う転出証明或は移動証明のようなもの)等多数残されている。また觸頭天満別院を通じて通達される本願寺の觸書を記載した帳面が天保年間より五冊残されている。恐らく今言う組長の役務を住職がしていたのであろう。また住職が門徒の葬儀に導師として出る時に乗った大名駕籠や、挟箱(装束入れ)、長柄、朱傘、曲禄等二組が残されている。

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